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 求刑10年考察

昨日ご紹介したラジオ番組からの文字起こしを見直しながら、当方の感覚では最大でも7年程度までが妥当と思えた求刑が、何故10年にもなったのかを考えてみた。
そうしたら割と簡単に分かってしまった。結論は「当事者の仲間がやっていることだから」というもの。

本事件は「誤認逮捕」の衝撃が特に大きかった。しかし、例えば最初の「横浜CSRF事件」を捜査した神奈川県警の報告書を読んでみると「呆れ返るほど杜撰」であった。本来誤認逮捕は防げたし、逮捕しても早期釈放になっていたはずの事案だったものが、被害者の大学生は送検されて保護観察処分にまでなってしまった。この被害者は家族も含めて未だに心の傷は大きいようで、唯一被告人の謝罪文を受け取る心境にならなかったと云うことからも、その深刻さが伺える。
他の誤認逮捕における問題も各都府県警の報告書に出ている。

片山氏は「腕試し」と言っているが、「悪質ないたずら」でも結果の影響が大きければ相応の責任が発生し、社会が処罰を要求するのは当然である。しかし、今回の犯行で生じた複数の誤認逮捕の責任は、対応が杜撰だった警察(一部は検察)も負っている。つまり、司法当局(警察・検察)は本事件の当事者でもある。

その当事者の仲間が、求刑という形で断罪するというのであるから、以下の報道にあるような主張(実質は開き直り)になるのも当然と言えるだろう。
"「まれに見る卑劣で悪質かつ重大な犯罪」片山被告に懲役10年求刑"
<捜査の問題点については「なりすましがあり得ることを考慮に入れた、慎重な捜査が必要で反省すべき点があった」と認めつつ、「被告の刑事責任とは別論で、罪を軽減する理由にならない」とした。>

前述のように司法当局も当事者なのであるから、「被告の刑事責任とは別論」ではなく、本事件の結果責任に関して司法当局にも「過失割合」相当分が生じる(当方個人的には割合は半々程度と見る)。その「自責」の念を持って、本事件処理(この場合は求刑)に当たる必要があったのではないか。

しかし、被告人の「他責」体質を糾弾しながら、自らの仲間組織のそれは棚に上げる。以下記事などを見ると改めてそれを感じる。
”PC遠隔操作事件 懲役10年求刑”NHK 11月21日
<「刑事司法制度への国民の信頼を揺るがしかねない前代未聞の事態を引き起こした一連の犯行は、日本のサイバー犯罪史上まれに見る卑劣なもので、模倣性も高いことから厳重な処罰が必要だ」と述べ、懲役10年を求刑しました。>

「刑事司法制度への国民の信頼を揺るがしかねない」と云うなら、本事件での司法当局の対応にもそれがあった。サイバー犯罪の基本レベルであるCSRFや基礎的なリファラの知識がないという呆れ返る失態は、「サイバー捜査史上まれに見る」というようなレベルではないのか。また、本来必須である「取調」を行わなかったために早期決着させられなかったことは、自責の念があるなら「犯罪捜査史上に残る」ような失策と自ら明らかにすべきではないか(何と傍聴報告では逆に勝利宣言のような話をしているとのこと)。

そして「模倣性も高い」というのを「再発」として考えると、今回のように仲間内の失態や失策を「別論」で片付けて、後で間違いなくスルーするやり方が誤認の再発を呼ぶことになるのは分かり切ったことである。(警察報告書で誤認逮捕防止の重点になるはずだった「シロにする捜査の徹底」という公約もあっさり反故にされている)
しかし、いつも公務員の仕事で問題になる「無謬性」を(表面的に)守るためには、自組織の失敗は認めたくないし、そのためには被告側に全ての責任を負わせる今回の求刑が必要だったということは(公務員の行動としては)納得できてしまう。(「無謬(むびゅう)」は「誤りのないこと」で、「公務員の無謬性」或いは「官僚の無謬性」で検索していただくと問題点が色々出てくる・・・但し立派な公務員も当然おられる)

最終的には、話は大きくなってしまうが、やはり「検察制度」にも「裁判員裁判」のように国民参加が必要ではないか。国民の多数判断が本事件で10年の求刑を必要とするものなら、それは従うべきと考えるが、ネットで見る限りは賛否両論だと思う。ただし、ネットの声で決めるわけには行かないだろうから、制度としての「国民の検察機能への参加」という形が必要になってくるのではないか。
その具体的制度設計や実現は非常に困難というのもよく分かるが、それなら「裁判員裁判」はよく導入したものだと改めて高く評価したい。日本の民主主義の深化ということで、更に先(検察制度への国民参加)も進めて貰いたいと思う。

以上