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 取調べ問題再整理と記者会見

取調べ問題にコメントを頂いているので、参考用に当方認識の再整理を行なってみた。
①録音取調べ実施可能性
以下記事のように当方で調べた結果、足利事件で既に録音取調べが担当検事の判断で実施され、再審で証拠採用もされたという先例がある。
”取調可視化に関して”2013/7/17
<既に取調の録音が行われていた事例がある。佐藤弁護士が担当した有名な冤罪事件である「足利事件」である。>

また、最高検が2011年3月~2012年年4月まで、特別刑事部の独自捜査に限られているが、組織的な取組みとして可視化試行を行なっている。
"取り調べ可視化。最高検が、試行結果を公表" 毎日新聞 2012年7月4日

このように既に可視化取調べを行った事例が存在する。それを元に、「本事件は誤認逮捕・起訴が発生したという特殊事情があり、慎重な捜査が必要なため担当検事の判断で録音して取調べを行なった」と説明すれば、検察官独任制と最高検も試行を行なっていたという状況があるから録音取調べが出来たと思われる。この推察により、当方は取調べを行うべきであったと強調してきた。

しかも、「丙社アクセスログ」など決定的証拠は当初から複数あったのだから、取調べで落とせる確信を検察側は持っていて当然で、かつ上記のように録音取調べ実施のハードルはやる気になれば乗り越えられるレベルであり、頑なに録音取調べ拒否し続けた検察側は、事件処理長期化の責任を免れないと考える(それだけ税金が使われている)。検察側の意思決定経過について検証必要と思うが、それが行なわれることはもはや無くなった。

②片山氏主張と調書内容
片山氏は、最初の取調べで「C#を読むことは出来るが、C#でプログラムを書くことは出来ないと言ったのに、C#が使えるように調書に書かれた」と主張して、これが録音取調べを求める根拠になった。
その時の調書内容は、2013年5月28日会見の佐藤氏によると以下の様であった。
<業務はアプリケーション開発で、主に使用しているプログラミング言語JAVA、 他に使ったことがあるのはC++C# で、C++はアプリケーション開発に使ったことがあり、C#は他の人が作ったプログラムのテスト作業を行う時に使ったことがある

だが、当時ブログにも書いたように、「テスト作業を行なった」からと云って、「C#が書ける」ことにはならない、というのがIT業界の常識である(と少なくとも当方は認識している)。逆に「プログラムを読める」と云う人に対しては、「少し頑張ればプログラムを書くことも出来るのではないか」と考える。
つまり、プログラム能力は ”読める人 > テストだけの人 ”という認識になるのが妥当と思われ、調書は真意を記していると当方は受け止めた。

しかし、片山氏は「真意と違うことを書かれた」と主張したが、これが”単なる勘違い”なのか、テスト作業で使用という記述は正しいが”取調べ批判”を意図して「間違っている」と言ったのか、については不明である。
ただ、罪を逃れようとする側が色々な手を使ってくるのは常に想定されることで、それを的確に見抜くべき側が、前項のように前例も試行もあったのに早期解決手段(録音取調べ)を頑なに拒み続けたのは疑問と言わざるを得ない。

なお、後で公判になってから分かったことだが、片山氏がやった「C#プログラムのテスト作業」は、プログラムの中身まで見ながら解析しつつテストする業務だったため、やっているうちにプログラム能力も身につくものだったと思われる。それで片山氏は「テスト作業」と書かれた方が「使える」と判断されると思ったかもしれない。しかし、片山氏がC#テストしたという案件は、バグだらけで中身から全部見なおすという特殊状況だったようである。通常のテスト作業はプログラムの中までは見ないことが殆どというのが業界常識で間違いないと思う。

③可視化阻止
検察側は可視化(本事件では録音)を拒んだわけであるが、裁判員裁判対象事件以外の全面可視化に進むことは避けたいという思惑で、可視化の実績にならないように歯止めを掛けたのかも知れない。しかし、今回の対応で容疑者が「可視化しないと取調べに応じない」と言って取調室に行くことを拒否したら、そのまま取調べが行なわれないという前例を作ってしまった。
前例主義の官僚の方々からすれば大きな決断と思われ、これが出来るのに、前述したような「本事件の特殊性に鑑み、担当検察官の判断で録音取調べ実施」という判断が出来ないというのは理解に苦しむ。

④会見
本事件における佐藤氏を中心とした弁護団会見による情報発信を当方は高く評価し、当ブログにも多く引用させて頂いた。ただ、検察側も会見して頂いていれば、それも紹介することが出来たが、捜査終結会見ぐらいしか検察側会見は行なわれなかった。
これは非常に残念であった。検察側は取調べで落とさずに長期化しても已む無しとしたのであれば、その間に弁護側が世論形成していけるから、検察側も会見による出来る範囲での客観的事実説明が必要だった。それが殆ど無かったために、事件に関心を持った人たちにも真相がよく分からず、混迷することになった。
検察側は「プライバシー」や「個人情報保護」に配慮した結果として、弁護側のような多くの会見は避けたということかもしれない。しかし、弁護側ほどの回数でなくても、捜査終了会見が唯一というのでは余りにも少なすぎる。

プライバシーも個人情報保護も主に米国から伝わった概念である。それに対立する面もある「知る権利」や「情報公開」もそうである。もっと根本的には、戦後導入された法律や裁判制度などにも米国の影響が強い。
その米国での事例を考えてみれば、有名な「OJシンプソン事件」は約20年前1994年であるが、法廷はTV中継されていた。前述のように米国から数多くのことを学びながら、こういうところは取り入れない。TV中継どころか、傍聴希望者が多くても別室で映像を見られるような配慮さえ未だに行なわれていない。
「米国でやっているから日本もやるべきという議論はおかしい」という意見も当然出てくるだろう。しかし、日本では法廷でメモが取れるようなったのでさえ、メモ許可を求めた裁判での約25年前の1989年最高裁判決以降なのである。如何に遅れた発想か、この両国裁判比較でも分かると思う。

日本独特の社会や言葉の壁に守られて、法曹界特に刑事司法はタコ壺に入っていないだろうか。それを本事件では弁護団がTVより新しいインターネットという手法で風穴を開けたと感じている。だが検察側は会見を殆ど行わず、国民の知る権利に応えなかった。裁判所もTV中継とは云わないまでも、傍聴への配慮さえも大幅に不足しているのは余りにも怠慢。また、今後弁護士業界も佐藤氏に続くような人物が出てきて情報公開の手法を広めていただきたい。
開かれた社会にしていくためには、「情報公開」を第一義に考えて、それとプライバシーなどをどう調整していくかという発想が重要ではないかと思う。

以上