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新コンペは「設計ロンダリング」? (追記でZHA位置付け)

本日は当方の検証メモ。

以前ご紹介したスポニチ記事で<伊東氏はザハ案との決別を明確に意図して、建築の構造から相違を意識してきたとのこと>となっている。(”敗れた新国立B案の伊東氏が指摘 A案はザハ氏に「訴えられるかも」 ” 2015年12月23日スポニチ
当然の発想であり、当方も類似性検証を行うまでは両案ともそのようにしてザハ案とは別に設計したものと考えていた。それがまさかの一致性を示し、建築は門外漢でも技術者として図面を見てきた経験からすれば明らかに流用。隈氏はよく否定できたと感心するぐらい。会見前に「中止か延期しないと虚偽を述べることになる」と危惧したが、実際にそうなってしまった。結果的に隈氏が代表して類似性を否定したことになり、大成チームは「類似していない」と公言したことになった。
これでは著作権等の話の前に、世論から「類似している」と判断されたら、公言との相違でアウトになる。現実的にはどうかというと、当ブログなどで類似性証明を見られた多くの方々は概ね「パクリ」「コピペ」、或いは「思った以上に似ている」と云うような反応で、しかもそれがTwitterFacebookなどで拡散。建築専門家でもない一般の方々の反応だから世論に直結するので、A案見直しも有りえるかもしれない。

白紙見直しを宣言し、2回目のコンペまでやりながら何故このような事態になったかを考えてみると、「新コンペの真の目的は何だったのか」と云うことで以下の点に思い至った。
 ”新コンペは「設計ロンダリング」の手段だったのではないか”
つまり、ザハ案を流用するが、「ザハ案とは違う新たな設計」ということにするために新コンペを行った。そう考えれば約2.5ヶ月という短い期間でのコンペだったことも納得がいく。新規設計ではなく、ザハ案を下敷きにした設計を前提に期日を決めて、結果は当初からの予定者を選定したことになる。そして、コンペにおいては冒頭の伊東氏見解のように、他の真似ではないオリジナル設計が求められると誰でも思うから、逆にコンペで選ばれたら全く新規設計と思わせることが出来る。このような発想だったことが考えられるのではないか。

それが上手く行かなかった要因として考えてみているのは大きく二つ。一つは余りにも流用が大幅で見破られやすいものだったこと。もう一つはJSCがZHAとの話し合いに決着をつけられないままだった
このうち後者については先日も述べたように昨年10月からJSCが新体制になったことが影響しているかも知れない。それは以下のテレグラフ紙の記事から読み取れるように思う。
この記事を抜粋して意訳すると、<昨年10月ZHA側からJSCに対して「昨年分の費用で契約解除に至るまでの3月~7月分が未払いになっている」ので支払いを求めたところ、JSCからは支払い条件として「設計流用承認と口止め」の要請を含んだ手紙が送られてきた>になると思う。

10月だとJSCの新体制が発足している。理事長・担当理事・設置本部長が一緒に変わったから、引き継ぎも難しく混乱しかねない時期にZHA側から支払い要請が来たことになる。更にJSC側では以下の問題も発覚して、支払い管理などが厳格になったことは確実。
こういうことが重なって、全体シナリオは官邸チームが書いていたが、JSCが窓口になっているZHAとの交渉がうまく行っておらず現在に至った。このような推測をしてみている。

前者の流用が大幅すぎた件に関しては理由がまだ見当つかない。余りにもバレバレで普通ならもっとカムフラージュすると思うが、その形跡も感じられないように思う。流用を前提として、それに新コンペで必要な変更を施したようにも受け取れる(当方個人的感覚)。
梓設計は自社で担当していた設計の流用だから、類似性(同一性)に気が付かないはずがない。当然すぐ見破られる危険性も認識するから自らの判断で行うことは考えにくく、流用前提で設計が行われたのは上の方からの指示と推測。建築プロジェクトで力を持つのは発注者側だから、その中でも全体を仕切っていたと考えられる官邸チームからだったのだろうか。

以上
[追記]
14日のテレグラフ紙報道以降ネットの反応を見ていると、ZHA側の問題点が余り認識されていないようである。15日記事「文藝春秋」記事を載せたのは、ザハ案設計経過の一端に見ていただきたいという趣旨があった。その中には「耐震性能に深刻な問題があった」などの内幕が書かれている。
だが、これまで同記事を何度か紹介してきたが、どうも反応が薄い気がする(苦笑) 著者の由利俊太郎氏が匿名と考えられるためか。しかし掲載誌は歴史があって有名だから、匿名でも荒唐無稽な駄文を載せるはずもない。
反応ツィートで「文藝春秋記事は事実と違うところがある、それはZHAの位置づけ」という趣旨のものがあった。このような受け止めもあって、同記事の信憑性に疑問が湧くのかもしれない。

確かに公式にはZHAは「監修者」となっている。それに対して同記事では以下のようにZHA(+アラップ社)が設計に関与したことが書かれている。
<「ザハ氏側から『うちのデザインを生かすには、アラップ社の優れた構造計算の力が必要だ』と口添えがあり、設計JVに組み込んだ経緯があったんです。『十分な構造計算を行った』と自負するアラップ社を前に、もはや日本の設計事務所は口出しできなかった」>

ZHAは監修者か設計主導者かと云うことになってくると思うが、これは後者になる。ZHA自身の発言から明らかなのだが、それが余り伝わっていない。重要になるのはまず昨年の「日経アーキテクチャ10月10日号」におけるZHA(当時)日本人スタッフU氏インタビュー記事。
ザハ・ハディド事務所として譲れなかった条件は、当初提案したデザインを守ることではなく、プロジェクトとの関わりを絶やさないことだった。そうした意味では、JSCや設計JVを含めて、私たちの希望するデザイン・コントロールはできていた。
「ZHA側が希望するデザイン・コントロールができていた」と明言している。

これだけでなく、検証委員会のZHAヒアリングにも記述がある。長くなるがそのまま引用する。
<○ 契約は、デザインスーパービジョンという形になっている。コンペの要項だとデザインの監修者となっており、日本側で設計者が選ばれることは理解していたが、良いものを作りたいということから、もう少し関わりたいということで打ち合わせをさせていただいた。最初は、私たちが海外でよくやるプロジェクトのように、基本計画はほぼ私たちがやって、基本設計は例えば7割で地元側が3割、実施設計になると逆に私たちが3割で地元側が7割、工事監理では私たちは1割ぐらいと、最後まで必ず関われるようにすることが前提としてあり、また最初の方で多く関わりたいという説明をした。
○ 平成24 年の暮れから平成25 年の初めぐらいのときは、どれだけのフィーを私たちに払うのかということと、どこまでが私たちができるかということが折り合わなかった。何度かやりとりして、基本設計を2つのステージに分け、基本設計の前半(平成25 年8月~12 月)はロンドンが主体で行い、設計JVもロンドンに来た。その後、基本設計の後半は日本側に移って続けた。実施設計になってからは、私を含めた4人が来て、最後まで見ていくという形で、段階的に私たちの関わりが徐々に減っていくが、最後まで関わることを前提にしてやった。あとは、フィーとのバランスの中で決めていた。特に、実施設計の前半では、ロンドン側でも5人から10 人ぐらいのチームが並行して動いていた。>

このようにZHAは監修者に留められたどころか、むしろ設計を主導する形でプロジェクトに関与した。これが「もう少し関わりたい」という交渉の結果とは大した謙遜である(笑) 実態はZHAがJSCを押し切ったことになるだろう。
特に設計の要になる基本設計の前半(平成25 年8月~12 月)はロンドンのZHAが主体で、場所も設計JVを含めてロンドンで行われたことが記載されている。このような事実が知られていなさ過ぎる。

また日建設計ヒアリングでは次のように述べられている。
<○ ザハ・ハディド事務所の役割はデザインスーパーバイズだったが、一緒にやっていくという感じだった。ザハ・ハディド事務所は、屋根のデザイン以上に、スタジアムの性能を決めるボウルのデザインを主体的にやろうとしていた。>
イメージ 1

つまり、ZHAは屋根のデザインもやって、更にボウル(観客席)の設計を主体的にやろうとしていた。まさに現在ZHAがスタンド設計の著作権を主張していることにつながってくる。
ただし、スタンド設計を全部ZHAがやったわけではなく、日本側も担当したことが同ヒヤリング結果に書かれている。
<○ この作業は、ザハ・ハディド事務所だけに任せていたわけではなく、設計JVも、同時にボウルの検討をしていた。互いに、国際標準に照らしたときはこうあるべきというのを自分たちなりの案を作って、調整しながら一つにまとめるというのがフレームワーク設計のワークショップだった。>
このような経過が有るが、普通はヒアリング結果まで読まないのも当然だから、誤解が生じることになる。

また、もっと根本的には以下の2つの状況がある。
 ①建前…国際コンペは「監修者」を選ぶものだった
 ②実態…ZHAが選ばれたが、実質は「監修者」を越えて特に重要な基本設計では「主導者」だった
①を批判する人の殆どは、②の状況をご存じないまま批判していると想定される。②は後になって上記インタビューやヒヤリング内容が出て分かったことだからやむを得ない面がある。しかし、それらが出た後も殆ど知られないまま①への批判が未だに残って混迷の元になっている。

この辺を徐々に解きほぐしていくことを考えていたが、類似性の問題が大きくなったので、そちらの推移を注視しながら適宜書いていく予定。また文藝春秋記事の件に戻ると、当初は内容の意味が分からなくても後から出てきた資料等で検証していくと真相を述べていたと云うことが多々有る。それは信憑性の高さの証にもなり、同記事の重要性がもっと認識されるようになって貰いたいと思う(ただし内容が豊富で専門的部分も多く、著者は建築専門家とは思えないので、理解の違いなどの可能性もあり、全部が事実通りと言い切れるわけではない、出来れば続報があって追加検証できると更に良いのだが)。

追記以上