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登場者検証6 「ゼネコン・JSCと和泉氏」

昨日記事からの続きとして、和泉氏とゼネコン・JSCの係わり合いを考察。関係を時系列で見ると「本年2月・3~4月・5月以降」の3期間に分けて考えられるのではないかと思っている。

①2月…JSCを飛び越えてゼネコンが動いた
■JSC(検証報告書)… →以降は当方見解、以下同様
<2月13日にJSCは文科省に対し、設計JVの見積りよりゼネコン試算は6割程度高めになっていて、この乖離を収めることは困難と想定されると報告>
→前月1月13日に竹中、20日に大成からそれぞれ第1回見積り概算が出ている。JSCとしては設計JVと2年近くやってきた成果である見積りを否定された形になる大幅な乖離があった。当然再調整を指示していたが、そのような中での上記報告は「JSCの諦めが早過ぎるのではないか」という違和感を当方は持ち、何か理由があると考えていた。
■ゼネコン(文藝春秋9月号由利氏記事・・・10月12日当ブログ記事参照)
大成建設を筆頭とする施工業者は一計を案じた。ザハ案維持を譲ろうとしない文科省やJSCを飛び越え、官邸に直接直談判に向かったのだ。今年の春先だった。悩みを打ち明けられたのは和泉洋人首相補佐官
→直談判の時期を考えてみると、まず「春先」とは「何時か?」。辞書や知恵袋等で調べると「春先=早春」で「2月から3月初」を指すようである。ただし人によっても認識が違うようだが、由利氏がこの使い方をしたと仮定して、その中で更に絞り込んでみる。
状況として、JSCは当初ゼネコン側の見積りを認めず、設計JV見積りに合わすよう、頑なに要求した事が考えられる。1650億円に対して3000億円超ではプロジェクト破綻だからJSCも必死。しかし、ゼネコン側は乖離が調整可能な範囲を遥かに超えていた。JSCや文科省と交渉してもラチが開かないため、トップ判断になって撤退も覚悟の上で官邸に駆け込んだことが想定される。
それに対して前項のように2月13日にはJSCは乖離調整不可を認め、ゼネコン側の見積りも認めた上での両論併記の形になった。この変化の理由として、「ゼネコンの話を聞いた和泉氏が迅速に状況を理解し、JSCと文科省にゼネコンの言い分も聞くよう調整したことで流れが変わったのではないか」と見る。ただし、実際にどのようなことが行われたかは当事者が語らないと不明だが、ゼネコンが官邸に直訴した時期は2月13日以前と当方は推定。これは和泉氏関与スタート時期の推定にもなる。
なお、見積り乖離は金額だけでなく納期の方が更に重要で、ゼネコン側は五輪に間に合わないという強い危機感で切羽詰まって直談判に出向き、和泉氏もそれを理解したのではないか。

②3月~4月(2月13日以降も含む)…仕様低減の動き
■JSC・ゼネコン(検証報告書)
<JSCは3月12日に文科省に対して納期短縮のために一部後施工の必要性や工事費縮減検討状況の報告を行った。3月20日にはゼネコンから開閉式遮音装置や可動席の後加工などの提案がJSCに対してあった>
→開閉装置などの後施工は早くから既定路線だったようである。
■ZHA(日経アーキ10月10日号記事内山氏インタビュー)
<私たちは与条件の変更を含むVE案をJSCに提案した。提案の内容は「開閉屋根を中止、または五輪後の施工にしてはどうか」「デッキを削って工費を削減してはどうか」と多岐にわたった。しかし、JSCは「有識者会議で承認された基本条件を変えるのは難しい」と言うばかり。今年4月くらいまで繰り返しVE案を説明したが、施工予定者の提示する価格と大きな開きが埋まらず、交渉は難航した。
→後施工の認識はZHAも同様だったようである。結果的には「開閉式遮音装置」の五輪後への先送りは決まったが、内山氏発言だと多くのZHA提案に対してJSCは受け入れを渋っていたようである。しかし、特に3月4月頃はコストダウン打合せをどんどんやって変えていかないと仕様が確定せず、JSCは日程面で完全に行き詰まるだけなのに冷淡?な対応になったのは何故か。
この時期には和泉氏も更に入り込んでいたことが考えられるが、「ザハ案改良で行くか、やり直すか」の両睨みだった可能性はあるだろう。それでも、やり直しの方に傾いていたからZHAの話を余り重視しなかったのかも知れない。そしてそれがJSCにも伝わっていたのではないか。ZHAがゼネコンと話が出来なかったという不満を述べているのも、このような背景が想定されてくる。

③5月以降…官邸主導になった
■ZHA(同上)
5月に入ると最終的な価格の交渉はJSCの手を離れた。その後は官邸と施工予定者が直接交渉をすると聞かされた。その結果が7月7日の国立競技場将来構想有識者会議で承認された2520億円。この価格に対して設計側が積み上げた価格は2090億円だった。>
→5月から明確にやり直しに舵を切り、ゼネコンと組んで詳細検討に入ったことが見て取れるのではないか。総理は決断の一ヶ月ぐらい前から検討と言い、下村文科大臣も6月に槇グループ案検討を表明するなど色々動いていた。しかし、実態はもっと早くからの和泉氏と同氏が構築した国交省ラインによる検討が決め手になっての白紙見直しだったのではないだろうか。
■官邸(報知新聞2014年6月6日”新国立設計ザハ氏と契約解除へ…文科省など検討”)
文部科学省などがデザイン監修者としたイラク出身のザハ・ハディド氏(英在住)の事務所との契約解除を検討していることが5日、分かった。政府関係者が明らかにした。ザハ・ハディド・アーキテクツ側と設計を変更するよう交渉を行い、不調に終わった場合、契約を解除する方針だ。>
→「交渉不調の場合」とはなっているが、実質は前項内山氏の5月の話の延長で、官邸(和泉氏)は既にZHA外しを決めていた流れが少し表に出て来た記事と推察される。ZHA案撤回=白紙化の最終決定に当っては「建てられない」はどの程度考慮されたのだろうか。今後情報が出てくるか。
なお、7月7日第6回有識者会議を開催して2520億を了承するに至った方の流れは、水面下でのゼネコンとの調整等で白紙見直しが確定できるまで、表面上は従来の予定に沿って続けさせたと見ている。

以上
[追記]
なぜこれ程多くの推測を混じえてまで和泉氏の動きに注目するのか、と訝しくお思いの方もおられるかも知れない。当方は現在を、新整備計画における「和泉劇場」の本格開場を待つ準備期間と捉えている。
旧整備計画では「見事なまでの集団意思決定システムで、全権を持って決定する本来のプロジェクト・マネージャーがいなかった」と検証報告書で評されている。
それに対して新整備計画ではどうか。「和泉洋人」氏という強力なリーダーが実質的に担当している。しかし、マスコミ等では「リーダーがいなかった」という報道はしても、今度は「非常に強力なリーダーがいる」ことはなかなか伝えない(笑)

そのような中で、優秀と言われる日本の官僚の中でも飛び抜けた能力を持つと思われる和泉氏という人が、どのようにプロジェクトを動かし結果を出すか。日本のプロジェクト・マネージメント史?に残るであろうその経過を、当ブログでは「和泉劇場」と勝手に名付けて見ていきたいと思っている。その前提情報として、旧整備計画での迷走の本質を和泉氏がどう捉えておられたか。「建てられない」という認識はどの程度お持ちだったのか。その上で白紙見直しに至るまでどのような動きをされたか。
補佐官という立場で水面下の活動部分が多くなり情報が少ない中でも、この辺を見ておきたいというのがこれまでの検討の趣旨。

なお、一部報道機関も注目し始めており以下のような記事も出ている。新コンペの情報も徐々に出てくると思われ、今後のマスコミやネット等での反応もどうなるか。
文科省にもJSCにも新国立のような大型工事を仕切れる人がなく、それが混乱の一要因だったが、それを国交省営繕部の技官集団に取り上げさせ、白紙撤回に持っていったのは和泉氏だった。
文科相が、公約通りの競技場をタイムリミットまでに竣工できるかどうかは、毀誉褒貶入り混じる、官邸の“政策職人”の腕にかかっている。>

追記以上