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正・反・合

本日の題名は18~19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルから採った。
何でいきなりそのような言葉を持ちだしたのか訝しがられると思う。
「正・反・合」は、大辞林の解説で以下のように解説されている。
<  ヘーゲルによって定式化された弁証法論理の三段階。ある判断(定立)と,それと矛盾する判断(反定立)と,正反二つの判断を統合したより高い判断(総合)のこと >

ややこしいことは抜きにして本事件に当てはめると、まず今回の事件で「正」をクロの主張、「反」をシロの主張とする。
(この場合の「正」は正しいという意味ではなく、上記解説にあるように判断の片一方を表すものになる)
そして、「正」と「反」の両面を見て、総合して「合」(真相)に至ると考えれば、国民も今や単に裁判でシロクロ付けるだけではなく、「真相を知りたい」という欲求が高まっているから、それに応えやすい考え方であることは明らかだろう。

しかし、今回検察側の姿勢はこれに当てはまらないところに問題があることが見えてきた。
捜査終結の記者会見で、江川氏記事によると東京地検次席検事は以下のように語ったそうである。
予断と偏見を持たずに証拠を見れば、誰でも片山さんが犯人と考えるはず

この次席検事発言を上記の「正・反・合」で解釈すると、「反」つまりシロの見方はしないで、検察側が集めた中から提示する「正」(クロ)の証拠類の積み重ねだけを見て欲しいと言っているのである。
これでは真相も全体像も見えてこないだろう。

超難関の司法試験を通った優秀な検察官の中でも指揮する立場の人が、真実を追求する論理的思考の基礎も理解しておられないのだろうか。
そして部下の検察官の方々も含め組織全体で今回の起訴やその後の進行を行っていて、文科系の頂点に立つような人達の論理構成がこの様なものとはまったく唖然とするばかりである。
各大学の法学部では連綿と何を教えてきたのか?、司法修習とは一体何なのか?。
この事件は当方にとって、とうとう日本の文科系教育や司法修習への疑義までつなげてくれた。(理工系の教育に問題が無いということではない)
何という奥が深い、深すぎる事件であろうか。

また、この事件以前であれば、検察と弁護という正反二項対立が基本という考え方もできただろう。
しかし、何度も繰り返してきたが、本事件で誤認逮捕の反省に立って「シロにする捜査徹底」の公約が出された後は、否認事件において捜査して訴追する側が「正」と「反」を両方見て、矛盾点を真摯に検証し総合して「合」(真相)を得るという姿勢が必要になったはずである。
その上でクロと出れば起訴することになる。

だが、東京地検次席検事という要職にある人が、記者会見という公式の場でそれを全く反故にしてしまっている。
しかも「反」(シロ)の見方の方を「予断と偏見」とまで言ってしまっていて、この発言に対する佐藤氏指摘のように「推定無罪原則」をも無視するものであることは明らか。

今はネットの力が大きいから問題点はすぐ暴き出される。
また、以前にも紹介したが、ネット上にあった次席検事におなりになる前の講義記録などを見ると、至極真っ当なことを述べられている。
立場上、そして公務員としての振る舞い上、今回のような発言をするしか無かったということも大いに推察できる。
しかし、残念というしか無い。

最早耳タコで恐縮だが、このような姿勢で行われた起訴は無効が相当で、早く公訴棄却してやり直すべきという主張を改めてせざるを得ない。
論告求刑まで行ってしまうだけでも、日本の司法やもっと進んで真実探求の姿勢における恥を後世に残すと思う。

以上

[追記]
本日は第三回公判も開かれて、検察側・弁護側の激しい応酬があったようである。
しかし、検察側は数多い矛盾も真摯に検討した上での全体像を示さない限り、起訴や裁判として成り立たないことを早く理解してもらいたいと思う。(もはや現実的に無理なことは承知の上だが)
当方も明日以降は又別角度から全体像につながる内容を検討していく予定。

追記以上