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取調と検察官独任制

val*gar*yさんとrec*lde**des*さんから取調の件でコメントを頂いている。
なぜ取調を行わなかったかについて推測されている。
 (1)可視化の流れに反対するため?
 (2)前例を作ると次から拒否できなくなるから?
 (3)逮捕が早すぎて、押収した大量のデジタルデータの解析が全くできていなかったからでしょうね。

(1)に関しては裁判員裁判では可視化がすでに行われ、対象拡大の内部提言もある中で、なぜ今回頑強に抵抗したかは大きな謎。
(3)は検察側がデジタル関係に疎く、IT技術のプロの被疑者と対峙することは潜在的に避けたかったのではないかという心理面の推測を当方もしていて基本的に同感である。
(2)の前例や例外を作りたくなかったという官僚らしい発想は本来充分考えられるのだが、前例自体はすでに存在する。
今までにも何回か言及していて佐藤氏が関わった足利事件である。
   ”足利事件取り調べ録音テープ1” (1~12迄あり)

この録音テープは再審で証拠採用もされている。
こういう実例がありながら、間接事実の積み重ねと検察自らが言う今回の事件において真相解明に不可欠の取調を行わなかった理由は、裁判所から明確に問い質してもらいたいと思う。

昨日も紹介した捜査終結時の次席検事会見で、その理由らしきことを一応述べているが、天下の東京地検No.2がこれほど酷い言い訳するかと呆れるレベルである。
”被疑者は取り調べ受忍義務があるが、留置場の房から引っ張り出して(取り調べを)やるか、ということについては、誤認逮捕の4人の中には自白の強要があったんじゃないかと言われているものもあり、客観証拠に重点を置いた”

「自白強要があったから留置場から引っ張りだしてまで取調をやらず客観証拠に重点を置いた」のなら、なぜ勾留延長請求を行なったのか。しかも再逮捕で勾留と延長を繰り返したことも全く棚に上げ、虚偽自白を迫られた気の毒な人たちをダシにしてまでの詭弁である(詭弁にさえなってないかもしれない)。
組織の中に入ってしまうと、誰しも出世や処遇のことを考えるのは仕方がないが、ここまで無理が見え見えの正当化をしようとするようになるのかと暗鬱たる気分になる。
(ご当人は講義では真っ当なことを教えておられる。当ブログ9月20日記事でご紹介済。
 ”本事件の検察責任者だった方の考え方が分かる講義記録”

更に、なぜそれでは足利事件では録音取り調べが行われたかと考えてみると、「検察官の独立性」ということがあり、「担当検察官の判断」という理由付けが考えられる。
裁判官個々が「自由心証主義」を保証されていることはこのところ書いてきているが、実は検察官も個々で独立しているのである。「独任制官庁」とも呼ばれる制度である。

”検察官は,検察権を行使する権限を持つ官庁である。個々の検察官が,官庁として検察権行使の権限を持つのであって,検察庁の長のみがこの権限を持つものではない。
すなわち,検察事務に関しては,自ら国家意思を決定し表示する権限を有する独立の官庁なのであって,上司の手足として検察権を行使するのではない。
検察官が独任制官庁といわれるゆえんはここにある。(中略)。検察官は,独任制の官庁であるから,本来,独立的性格を持つものである。
司法研修所検察教官室『検察講義案(平成12年版)』・15頁)”

司法研修所の資料であるから正式見解としてこうなっているわけである。
また、ネットで分かりやすい解説もあったので追加する。

”検察官は、一人一人が独任制の官庁として、検察権を行使することができます。
つまり、検察官の職にある一人一人の人間が、単独で意思決定を行い、検察権を行使することができるのです。
刑事訴訟法では、「検察官は・・・・・」となっていて、「検察庁は・・・・・」となっていませんので、検察官の独任制を条文から知ることができます。
そういうわけでは、検察庁は、「検察官」の事務を統括する「事務所」に過ぎないと言えるかもしれません。
しかし、検察庁としての意思統一や一体性を図る必要がありますので、検察官は、検察官同一体の原則により、検事総長を頂点とした指揮命令系統に服するとされています。
ただし、検察官同一体の原則に反しても、それは、検察庁内部における「職務命令違反」に過ぎないので、検察官が単独で意思決定した検察権の行使は有効です。

今回も次席或いは担当検察官の判断で録音取調をやれば良かったのである。
勿論裏では検察庁トップとも話をつけた上で、表面上は独任制である各検察官の判断で録音取調をやったことにすれば、足利事件と同じに出来た。
このように色々手法はあるのに、法曹関係者は法律を勉強してきた際の知識重視の習い性があるのか、論理的思考より「すでにあるもの」を重視しすぎているように思えてならない。
その意味で、このところご紹介している「裁判員制度」導入の意義を改めて強調したい。
民間人の裁判参加という根本中の根本を変えることが出来たのだから、それ以外はもっと柔軟に変えていけるはずである。

更に法廷戦術においても、今回佐藤氏が思い切った手法に出た。本来は以前rec*lde**des*さんのコメントにもあったように600点以上の証拠をまとめられたら弁護団は困るはずなのに丸呑みしてきた。
それの方が勝算ありと踏んだわけで、これも佐藤氏が実際に表明する前にこの手法に他の人が言及したら、「そんなことが出来るわけがない」と一蹴された話だろう。
同様に、当方が昨日書いた”刑事訴訟法第一条違反での起訴無効”の件も、荒唐無稽な話ではないと思っている。

要するに「有りもの信奉」ではなく、「新しいことを考える論理力」である。
佐藤氏には裁判史に残るであろう大技での論理構築を期待しているし、裁判所には刑事訴訟法違反で公訴棄却するぐらいの筋を通した見識を見せてもらいたいものである。

もちろん検察も公判になったら、今までとは違った対応で、横綱相撲を見せてくれる可能性も残っているが、
弁護側から「情況証拠による有罪立証の場合は、情況証拠によって認められる間接事実の中に被告人が犯人で無いとしたならば説明できない事実関係を有する必要があるが、本件でそういう事実関係は何なのか?ということを検察官は特定してもらいたい」と求められ、裁判官からも「弁護人の主張に検察官なりに答えるように」という要請があったのに、
「その点を特定することはしない、検察官が証明予定している事実の全てがその事実に該当する」と検察側は答えたとのことである。

それを受けて弁護側は請求証拠を全部同意するという今回の法廷戦術を採用した。
検察側の「特定しない」という対応は、公判前整理手続の主要目的である「争点整理」の否定となり、手続きの趣旨をないがしろにするものである。
そういう対応をして、弁護側には「全部一体なら一旦全部同意した上で全体を否認する」という異例の行動に出る論理的根拠を与えたわけである。
現段階までの検察側の論理は納得出来ないものが多すぎるので、実際の公判ではどうなのか注目したい。
以上

[追記]
余談的になるが、参考に2点追加。
まず勾留期間の問題だが、10日間は大正11年からの旧刑事訴訟法でもそうなっている。
しかし、その頃を推察してみれば当然自動車などは数も少なく性能も劣る。公共交通機関も未発達。
逮捕された警察署から取調を受ける検察庁までの移送だって時間がかかるし、電話も普及していないから、参考人に来てもらうよう連絡するだけでも時間がかかり、前述のように交通機関未整備で移動時間もかかる。特に地方では顕著。
資料もすぐコピーしたり電子メールするなんてことも出来ず、手書き複写や郵送になるだろう。

すべての時間の流れが緩やかだった時代の日数規定が未だに生きているのである。現代には到底そぐわないし、日本の司法が「中世」と云われるのも無理からぬ状態である。
論理的に考えたら見直すのが当たり前だが、そういう発想がなかなか出て来ないのが法曹界ではないかと感じる。
技術の世界では大正時代の技術で物を作ったらどうなるか考えたらすぐ分かる(笑)
それがそのままどころか、追加の10日も含めて20日が標準仕様のようになってしまっている。
早急に見なおすべきだと思う。

続いて、司法というより政治だが、検察の独任制に関連した問題。
当方は検察官が独立していることを別の事件の際に知った。2010年9月の尖閣沖漁船体当たり事件である。
この事件で「不起訴」は那覇地検が決定したことであるとして、当時の政府は仙石官房長官中心に幕引きを図った。
日本の外交・防衛問題につながる重大事件の判断を地検だけに任せるのかと不思議に思って調べてみたら、出て来たのが検察官の独立性であった。

もちろん裏では政府の意向が伝えられていて法務大臣法務省最高検察庁も手を組んだ上での茶番だったはずだが、弁護士資格も持つ仙石氏が主導したことは間違いないだろう。
更に再政権交代しても、自民党やこの問題当時に自民党総裁だった現谷垣法務大臣も真相究明する気など全く無さそうで、結局地検が判断したことにされてしまう。
政治がこれでは司法改革もなかなか進まないのもよく分かってくる。

追記以上