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自由心証主義

司法関係を始めたので当面継続予定。
皆さんのコメントはどんどん自由な論点でお書き頂きたい。

さて、本日は自由心証主義についてであるが、簡単な図を作ってみた。

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「その他」は後述するとして、上図のように「証拠」はすべて裁判官の頭のなかで「心証」に変換され、それに基づいた判断で判決に至る。
これは刑事訴訟法で担保されている。
 刑事訴訟法第318条 証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。”

ただし、例外も規定されているが、「違法な手段で収集された証拠は証拠価値を認めない」とか、「自白が唯一の証拠である場合には、有罪としてはならない」とかいう云わば極端なレベルのものであり、通常は裁判官の自由心証が最大限に認められることになる。
よって、例えば「心証」と「物的証拠」と云うように並べて語る位置づけではなく、証拠は心証形成に使われるという関係になる。

しかし、このような方式・考え方であることが日本国民にどれだけ浸透しているかは疑問。教育でも少なくとも高校ぐらいまでには教えておくべきことだと思うがそうなっているだろうか。本来は国民が常識として知っておくべき重要事項だと思うが、国と法曹界はどのような取り組みをしているのだろうか。

続いて、「その他」の方であるが、自由心証主義では次の様な素朴な疑問が出て来るだろう。
”裁判は、自由心証主義といいますが、裁判において、被告が誠実そうに見えた場合とそうでない場合では、同じ罪を犯していても判決に違いが出てくるものでしょうか?
被告が演技、演劇、話術などの経験がある場合、裁判官はそれを見極めることは出来るのでしょうか?詐欺師などは、話し方、表情などを研究し、どうやって人を欺くかを知り尽くしたプロといえますが、裁判においてもそういった技術を使っているかと思うので、今の裁判制度、自由心証主義でそれを見抜けるかという疑問です。”

Q&A全体は上記URLにあるが、回答を引用して当方の見解も付す。
まず、以下の回答1は「全ての判断材料を踏まえた上での裁判官の心証が自由である」と解説している。当方が図示した「証拠だけでなく証拠以外のその他諸々を含めて裁判官の心証になる」というのはこの意味である。
なお、( )内は回答そのままだと、質問に直に答えてないようにも受け取られかねないと思えたので、趣旨を忖度して当方が追加した。

<裁判官が判断を下す際に考慮するのは被告の態度だけではありません。自由心証主義というのは、被告の態度に対する裁判官の印象が自由であるという意味ではなく、(態度や)物的証拠や証人尋問などを含む全ての判断材料を踏まえたうえでの裁判官の心証が、誰にも邪魔されることなく自由である、という意味です。>

次に、以下の回答2は自由心証とは云っても全く自由というのではなく、合理性を担保するために様々な抑制があり、それを「合理的心証主義」として解説していて非常に重要である。

<自由心証主義と言っても経験則や論理法則に従わねばならないのは当然であり、その意味で合理的心証主義と言われます。
現行法上は、裁判官の恣意性を許さないため、自由心証主義の合理性を担保する諸制度がおかれています。
一つは事前抑制であり、当事者主義を採用することで、当事者双方が提出する証拠によって裁判官が心証を形成することとして、事実認定を合理的なものとしています。
また、自白や伝聞証拠(また聞きのもの)の証拠能力を制限する証拠能力制限制度があります。定型的に誤判を招きやすい証拠を公判から排除することで自由心証主義の合理性を担保しようとしています。
さらに、補強法則があり、自白以外の証拠を要求することで自白に対する過度の信用を制限し、心証の合理性を担保しようとするものです。
二つ目は事後抑制です。
法は、判決理由の明示を要求しています。裁判官は心証形成が合理的であることを表明する必要が生じ、恣意的な判断が抑制される仕組みになっています。
また、上訴・再審といった制度も、間接的に裁判官の心証形成を抑制していると言われています。>

回答2の中で当方が印象深いのは「当事者主義」の採用が、自由心証主義の合理性を担保するための諸制度として最初に述べられていることである。
昨日記事で、今回公判前整理手続を10ヶ月近くもやったにも関わらず、最終的に争点整理どころか弁護側が検察側の膨大な請求証拠に全て同意するという形になり、それは表面的には同意だが実質的には検察側証拠全体による立証を真っ向から否認して公判で全面対決という事態になっている責任は、裁判官の訴訟指揮の問題が大きいのではないかという趣旨を書いた。
しかし、そういうやり方を是正しようとすると、裁判官はできるだけ介入しないで最後まで中立的立場でいて最終的に自由心証で判決を下すという仕組みの趣旨とぶつかるというのは非常に難しい問題である。(中立的介入だけというのはなかなか難しいので、出来るだけ介入しないのが中立を守るのに一番適切ということになってしまうため)

以上