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「シロの確信」へのコメント返信

頂いたコメントに関して、①複数説、②真犯人をどう考えるか、③被疑者人物像、④被疑者業務状況の4つの観点で、当方見解を今日明日の2回で述べる予定。本日は①と②。
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①複数説 
基本的には2月27日記事で述べたので補足を行う。
複数説が本事件で具体的に取り沙汰されるのが雲取山である。
検察側は埋めた時期を「12月1日頃」としていた。
これに関して読売新聞の2月13日37面掲載の検察側冒陳要旨では以下のようになっている。
  < 同年(2013年)5月には、犯人が埋めたとするUSBメモリーが東京近郊の雲取山で見つかったが、埋めたのは被告である。被告は12年12月に雲取山に登ったことがあり、それ以前にもUSBメモリーの耐久性に関するサイトを閲覧していた。>

読売のような大手は検察側から公判終了後にレクチャーを受けている。司法記者クラブ向けには傍聴席も用意されているので記事の確実性はあるものとする。  

検察側は公判では「埋めたのは被告である」と断定してきたということになる。
当然「情を知らない第三者が埋めた可能性」などは持ち出せなくなった。
その上で「12月1日」と断定しない根拠を、弁護団の方でぜひ早期に問い質して明らかにしていただきたいと思う。
仮に被疑者が埋めたことが立証できていなくても、12月1日以外の被疑者登山の証拠でもない限り、12月1日「頃」では一般人から見ても全く理解できないのは明らか。

なお、「USBメモリーの耐久性検索」の話も出てきたが、これはラストメッセージの「紅葉の初めごろ登った」の真偽にも影響するので検索時期が非常に重要になってくる。これも早期に問い質して明らかにしていただきたい。
このように、複数関与の可能性(複数説)検証は、まず雲取山の件の疑問点を明確化する所から始めるべきと考える。
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②真犯人
当方は基本的に分析重視なので、被疑者シロ=真犯人追求とはすぐに連続して考えない(考えられない)。
被疑者シロの確信を更に色々補強していく中で、真犯人の姿がうっすらでも見えてこないかと思っている。

ただ、被疑者が犯人でないなら、真犯人は何処にいるのか?となる気持ちもよく理解できる。
それで参考として以下の例をご紹介する。
佐藤氏も最高裁判決を度々引用されている「大阪平野母子殺人事件」の例である。

この事件は死刑判決が最高裁で差し戻されて被疑者は大阪地裁で無罪判決を受けている(現在検察側控訴中)。
それでは「真犯人はどうなのか?」ということで、手に入る一次資料として最高裁判決を読んでみたら以下のように書かれていた。
< (3) 第三者の犯行可能性について第1審判決がこれを否定する根拠は,いずれも,例えば宅配便や郵便配達を装った通り魔的殺人の可能性を排除するものとして,必ずしも説得的であるとは言えない。

母親を絞殺しただけでなく証言能力もない1歳10ヶ月の幼児を風呂で溺死させ、その後放火までしている犯行に対して、真犯人可能性推定は「通り魔」が例示されただけで済まされている(唖然)
(これ以外の真犯人への言及は多数意見には無い、又事件手口詳細などはwiki等参照)

しかも何故「宅配便や郵便配達を装った」と付いているのかというと、被害者の女性は夫が借金があって取り立てが来るから、戸締まりを厳重にして限られた人間が訪れた際にしかドアを開けようとしなかったという事情があり、それでも侵入可能性があるとしたらということで、宅配便等の偽装が付加されているのである。
取って付けたような理屈の好例ではないか。

これが有名な「大阪平野母子殺人事件」最高裁判決の内実である。
健全な社会常識の上に、高い見識を持っているはずの最高裁とは一体何なのか。
「呆れてものが言えない」というのが、これを見た時の当方感想であった。

ただ、「通り魔」の可能性が全くゼロとは言い切れないから、その部分はこれ以上突っ込まない。
ただし、これほど残忍な手口の犯行の真犯人可能性が通り魔で良いのなら、本事件の真犯人も「可能性を挙げてみろ」と言われたら、「被疑者以外の誰か」程度で良いということになりそうである(笑)
こういうこともあって、当方は真犯人にはまず余りこだわらずに、被疑者シロの検討を行いたいと考えている。
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本日題目に関しては以上であるが、「大阪平野母子殺人事件」について更に参考補足。
「被告が犯人でないと説明のつかない事実が間接証拠に含まれている必要がある」という判決を主導したのは藤田裁判長と思われ、自ら長文の補足意見も書いている。
しかし、論理も文章も分かりにくいものである。

それに対して、多数意見に反対の立場から補足意見を書いている堀籠裁判官の方が、遥かに納得性のある論理をもっとわかり易い文章で示している。
有名な判決部分に対しては「必要性がないと思われる」としていて、内心は「意味が無い」とはハッキリ言いたいのだと思う(笑)
< 「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」があるとは,まさしく被告人が犯人であることが合理的疑いを容れない程度に立証された場合と同意義になるように思われる。そうすると,このような概念をあえて定立することの必要性はないように思われる。

それで更に調べてみたら、藤田氏は殆ど国立大学一本であった。
 1963年 - 東京大学法学部卒業
 1963年 - 東京大学法学部助手
 1977年 - 東北大学法学部教授
 2002年 - 最高裁判所判事
それに対して堀籠氏は裁判官をやられて、内閣法制局参事官なども経験しておられる。
 1964年、東京大学法学部卒業。
 1967年、判事補任官
 1984年、内閣法制局参事官
 2000年、最高裁事務総長。
 2005年5月17日、最高裁判所判事。

ただ、東大法学部に助手として残れるのは首席の人とどこかで見たから、藤田氏は最高学府の中でも特に頭脳明晰の人だろう。
それでも実務経験や民間の経験がないと、一般の人が考える常識というのは理解が難しいのではないか。
その点、堀籠氏の方が判事という実務をやった分アドバンテージが有ったのかもしれない。
この判決は裁判員裁判の導入前で、それに向けてのメッセージも込められた判決という面もあるようだが、裁判員裁判への考え方も、詳細は省略するが藤田氏より堀籠氏の方が適切と感じた。

法曹の世界の方々は、長い伝統の中でなかなかそこから抜け出せないのかもしれない。
差し戻し決定の是非は別として、真っ当な意見のほうが少数として葬られる。残念な話しである。
なお、当方は「証拠価値の低い証拠の寄せ集めでの立証を安易に認めない」という意見には全く同感であり、事件をどう裁くかは別途事実関係を見る必要があるが、堀籠裁判官が反対意見の中で述べている「同意義になる概念を新たに定立する必要は無い」という部分は、多数意見より論理が的確であると評価する立場である。
「出来る限りシンプルに」は、論理の基本中の基本である。

翻って本事件では、佐藤氏はこれら全てわかった上で、判例の使えるところは使うという戦法をとっておられると思う。被告人弁護のためには当然の行動である。
ただ、後々は弁護の立場だけでなく、日本の司法のために佐藤氏や木谷氏のような実務派かつ現場現物主義も実践しておられる方々が、今一度日本の法学のあり方や法体系を見なおして頂きたいと切に思う。
法は国の礎である。

以上